2020年09月28日
嬉野茶について その3
吉村新兵衛の死後からしばらくの間茶業は徐々に衰退していったのですが、新兵衛の曾孫にあたる森右衛門という人物の方が、茶園を作ることが肝要と茶園管理の工夫研究に務め不動山の谷間の茶園をよみがえらせました。さらに森右衛門の弟の孫藤十郎は天保年間(1830~1843)に相撲見物の人々に嬉野茶を宣伝販売、宣伝文の版木をつくり印刷して各地で配布されました。茶の規格を整え銘柄をつけ商品価値を高めて嬉野茶の販路拡大に努めました。この頃欧米列強が進み、出島では17世紀半ばから19世紀半ばにかけてオランダの東インド会社と貿易が行われてきました。1823(文政6)年にはドイツ人博物学者のシーボルト(1796-1866)がオランダ商館付医師として長崎に着任、その後に著した「江戸参府紀行」に嬉野の茶栽培は日本国に名高くして優れたる緑茶を産出す」と記しています。シーボルトはその後茶樹の栽培についても研究し、植民地であるインドネシアのジャワ島に種子を送って栽培しました。これは失敗に終わりましたが、後に中国種の茶樹で成功し紅茶の生産地として結びついています。嬉野茶を海外に積極的に取引しようと務めたのが大浦慶(1828-84)です。長崎の商人の娘として生まれた大浦慶は1853(嘉永6)年出島でオランダ人テキストルと提携し嬉野茶の見本をイギリス・アメリカ・アラビアに送りました。その3年後の1856年(安政3)年にはイギリスの商人W・J・オールトが来航した際テキストルに託した茶の見本を見せ巨額の注文を受けたが、嬉野茶だけでは足りず、九州一帯の茶の産地を巡って約6tほどを輸出されています。こうしたことが日本茶輸出貿易の先駆けとなり、坂本龍馬や大隈重信らとも親交が結ばれていくようになりました。大浦は他の商品の貿易もされたが、1872年イギリスのオールト商会との煙草の取引で失敗に終わり没落してしまいました。それでも1884年に明治政府が茶輸出を率先して行った功績を認め、功労賞と金二十円を贈ったのですがこの時既に危篤状態に陥っておりその1週間後に57歳で亡くなられました。
現在、嬉野茶は玉緑茶が主流です。戦前までは釜炒り茶の生産がほとんどでしたが、戦後は徐々に蒸し製玉緑茶の生産に変わっていき、現在では生産量の地約98%ほどを蒸し製玉緑茶が占めています。嬉野茶は2008年に地域団体商標を取得されています。写真は袋井のエコパスタジアムでの骨董市で購入した蒸し製玉緑茶です。

現在、嬉野茶は玉緑茶が主流です。戦前までは釜炒り茶の生産がほとんどでしたが、戦後は徐々に蒸し製玉緑茶の生産に変わっていき、現在では生産量の地約98%ほどを蒸し製玉緑茶が占めています。嬉野茶は2008年に地域団体商標を取得されています。写真は袋井のエコパスタジアムでの骨董市で購入した蒸し製玉緑茶です。
