2018年11月19日
江戸時代に起こった茶一件
江戸時代の茶取引は現在の茶市場の取引ではなく(静岡茶市場参照)茶産地からの茶問屋に代わる茶業資本金の確保先として地域内に「茶会所」が運営されていました。
しかし江戸時代には茶取引において2つの騒動がありました。一つは文政7(1824)年に起きたいわゆる文政の茶一件です。1786年(天明6)に二俣で穀類や品物の買占め・売惜しみで物価高騰を招いたとされた商人たちが襲撃される事件が起こりました。茶の価格が下落しこれが江戸の茶問屋の不正によるものだとして江戸の勘定奉行に訴訟しました。それに伴いこの訴願がたちまち春野、森、川根、本山(静岡市)へと広がっていきました。しかしながら裁判は証拠不十分として和議(敗訴)となりましたが、この事件がきっかけにより茶の流通が見直され、生産者との自由な売買が可能になっていきました。ところが1850年代になると静岡市の安部川、藁科川沿いの山間地で、駿府茶問屋に売り渡すと儲けが少なくなると不安視した茶産地の茶商らが各村の名主を使って不買運動を始めるようになりました。生産者たちによる妨害や差別を受け嘉永5(1855)年、安倍郡下63ヶ村の農民が訴訟を起こしました。これが嘉永の茶一件です。裁判では勝訴し、以降栽培拡大、生産が増加し横浜開港に伴い世界へと静岡茶が進出されていくようになっていったのです。
しかし江戸時代には茶取引において2つの騒動がありました。一つは文政7(1824)年に起きたいわゆる文政の茶一件です。1786年(天明6)に二俣で穀類や品物の買占め・売惜しみで物価高騰を招いたとされた商人たちが襲撃される事件が起こりました。茶の価格が下落しこれが江戸の茶問屋の不正によるものだとして江戸の勘定奉行に訴訟しました。それに伴いこの訴願がたちまち春野、森、川根、本山(静岡市)へと広がっていきました。しかしながら裁判は証拠不十分として和議(敗訴)となりましたが、この事件がきっかけにより茶の流通が見直され、生産者との自由な売買が可能になっていきました。ところが1850年代になると静岡市の安部川、藁科川沿いの山間地で、駿府茶問屋に売り渡すと儲けが少なくなると不安視した茶産地の茶商らが各村の名主を使って不買運動を始めるようになりました。生産者たちによる妨害や差別を受け嘉永5(1855)年、安倍郡下63ヶ村の農民が訴訟を起こしました。これが嘉永の茶一件です。裁判では勝訴し、以降栽培拡大、生産が増加し横浜開港に伴い世界へと静岡茶が進出されていくようになっていったのです。
Posted by あ~茶ん@EcoGreenTea at 04:07│Comments(0)
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