2017年12月11日
今井信郎
先週土曜日、牧之原市で歴史講談があり参加してきました。
歴史講談のテーマの人物は今井信郎です。
以前に牧之原の開拓で関連した話です。
今井は天保12年10月2日(1841年11月14日)江戸本郷湯島(現在の東京都文京区湯島)の幕臣の家に生まれました。
1850(嘉永3)年10歳で元服(げんぷく=成人となるための儀式)して為忠と名乗ると1860(安政7)年20歳で免許皆伝(=家元が門人に流派の名乗りを許すること)、講武所(=武家訓練)師範代を拝命、、片手打ちという独自の剣法を編み出しました。(後に封じられました)この頃桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が水戸浪士らにより暗殺される事件が起こりました。1863(文久3)年柔術の指南を受けた神奈川奉行所取締役窪田鎮章の配下となり扱心流体術を習得した後、遊撃隊頭取として京都に赴き、上京後は佐々木只三郎(1833-1868)の京都見廻組に参加しました。
次第に物価が高騰し、農民一揆が度起こると、池田屋事件(京都の旅館で新選組が襲撃した事件)が発生、1865(慶応元)年には薩長同盟が成立します。時は1867(慶応3)年、坂本龍馬は海援隊を、中岡慎太郎は陸援隊を組織、薩長に倒幕の密勅が下がります。京都見廻組に配属された今井や佐々木ら京都見廻組らは京都近江屋にいた中岡と坂本を暗殺する事件を起こします(近江屋事件)。1868年1月鳥羽伏見の戦いが起こると3月江戸城が無血開城されます。この時今井は幕府軍として北上します。「衝鉾(しょうほう)隊」を結成し隊長に任命され栃木、新潟の長岡、会津若松と移り、北海道に渡って軍艦となり函館に入り、精鋭隊(新政府軍)と戦います。これが戊辰戦争です。しかし翌1869(明治2)年宮古湾(岩手)の海戦で敗れると函館五稜郭は落城、全面降伏されます。京都見廻組の佐々木只三郎は戦死、戊辰戦争終結と共に消滅しました。今井は捕虜の身となって東京へ護身され罪人となり近江屋事件の取り調べを含んだ裁判が始まります。ちなみに対立した精鋭隊にいたのが中条景昭(1827- 1896)です。1870年(明治3)年禁固刑の判決が下されたが、1872(明治5)年特赦により釈放され駿府(靜岡藩)に家族と移り住みます。ここから今井の第2の人生の始まりです。
1876(明治9)年八丈島に配属された後1878(明治11)年坂本村(島田市阪本)に戸籍を移し牧之原茶園に入植、中条景昭と共に牧之原の開墾に携わるようになります。この間、駿府で学校を設立、八丈島では貯水池の開発や整備に尽力します。1889(明治22)年初倉村が誕生すると帰農し議会機委員選挙で当選、1895(明治28)年には農協の前身である農会長に選ばれます。1906(明治39)年には初倉村の村長に任命されます。1918(大正7)年78歳で亡くなるまで榛原高校の設立など榛原郡史の基礎を築き、牧之原の開拓史の発展に大きく関わってきた人物です。
歴史講談のテーマの人物は今井信郎です。
以前に牧之原の開拓で関連した話です。
今井は天保12年10月2日(1841年11月14日)江戸本郷湯島(現在の東京都文京区湯島)の幕臣の家に生まれました。
1850(嘉永3)年10歳で元服(げんぷく=成人となるための儀式)して為忠と名乗ると1860(安政7)年20歳で免許皆伝(=家元が門人に流派の名乗りを許すること)、講武所(=武家訓練)師範代を拝命、、片手打ちという独自の剣法を編み出しました。(後に封じられました)この頃桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が水戸浪士らにより暗殺される事件が起こりました。1863(文久3)年柔術の指南を受けた神奈川奉行所取締役窪田鎮章の配下となり扱心流体術を習得した後、遊撃隊頭取として京都に赴き、上京後は佐々木只三郎(1833-1868)の京都見廻組に参加しました。
次第に物価が高騰し、農民一揆が度起こると、池田屋事件(京都の旅館で新選組が襲撃した事件)が発生、1865(慶応元)年には薩長同盟が成立します。時は1867(慶応3)年、坂本龍馬は海援隊を、中岡慎太郎は陸援隊を組織、薩長に倒幕の密勅が下がります。京都見廻組に配属された今井や佐々木ら京都見廻組らは京都近江屋にいた中岡と坂本を暗殺する事件を起こします(近江屋事件)。1868年1月鳥羽伏見の戦いが起こると3月江戸城が無血開城されます。この時今井は幕府軍として北上します。「衝鉾(しょうほう)隊」を結成し隊長に任命され栃木、新潟の長岡、会津若松と移り、北海道に渡って軍艦となり函館に入り、精鋭隊(新政府軍)と戦います。これが戊辰戦争です。しかし翌1869(明治2)年宮古湾(岩手)の海戦で敗れると函館五稜郭は落城、全面降伏されます。京都見廻組の佐々木只三郎は戦死、戊辰戦争終結と共に消滅しました。今井は捕虜の身となって東京へ護身され罪人となり近江屋事件の取り調べを含んだ裁判が始まります。ちなみに対立した精鋭隊にいたのが中条景昭(1827- 1896)です。1870年(明治3)年禁固刑の判決が下されたが、1872(明治5)年特赦により釈放され駿府(靜岡藩)に家族と移り住みます。ここから今井の第2の人生の始まりです。
1876(明治9)年八丈島に配属された後1878(明治11)年坂本村(島田市阪本)に戸籍を移し牧之原茶園に入植、中条景昭と共に牧之原の開墾に携わるようになります。この間、駿府で学校を設立、八丈島では貯水池の開発や整備に尽力します。1889(明治22)年初倉村が誕生すると帰農し議会機委員選挙で当選、1895(明治28)年には農協の前身である農会長に選ばれます。1906(明治39)年には初倉村の村長に任命されます。1918(大正7)年78歳で亡くなるまで榛原高校の設立など榛原郡史の基礎を築き、牧之原の開拓史の発展に大きく関わってきた人物です。
Posted by あ~茶ん@EcoGreenTea at 01:30│Comments(0)
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