2021年06月29日
牧之原開墾と大井川の水
牧之原開拓についてはこれまでいろいろ触れてきました。明治2(1869)年中条景昭(1827- 1896)ら明治維新によって職を失った士族約250人が移住しました。その背景にはとても苦しいものがありました。その苦しい大きな要因が水問題でした。牧之原台地は、開拓当初から水不足でありました。牧之原から東側には大井川が流れていますが、台地までは距離がありました。江戸時代の大井川では渡航が禁じられていましたが、旅人や要所らを安全に対岸まで護送させていた、いわゆる川越人足(かわごえにんそく)という人たちがおりました。川越しの管理・統制を敷いて川庄屋と年行事が充てられたいわゆる川越制度が明治3(1870)年」に廃止され、川越人足を勤めた約1,300人あまりが職を失いそのうち約100人が200町歩あまりの土地へと入植されたといわれています。しかしながら当時の牧之原台地は荒野の場所で厳しい重労働で体調を壊し多くの士族は牧之原を去っていきました。それでも丸尾文六(1832-1896)らによって茶園造成を計画的に練ったことで開墾が発展されていきました。また、丸尾文六によって必要な物資や生活費が支給されていきました。また、勝海舟(1823-1899)や山岡鉄舟(1836-1888)らによって開墾資金を獲得され明治20(1887)年には開墾が達成され、士族が徳川邸に招かれ天皇同席で祝福の流鏑馬(やぶさめ)が披露されました。
当時の牧之原台地は生活に必要な水にも事欠く状態でした。台地下の水源からドラムかんやポリタンクに水を詰め何往復も重ねたり、住家や小屋の屋根などの雨水を水槽に溜めては管理用水に使っていました。また、干ばつ時のかん水・病虫害防除・施肥のための水も多く必要となりとても苦労がありました。この苦労が乗り越えられたのは昭和53(1978)年、生産性の向上と農業経営の安定を目指す「国営牧之原農業水利事業」が着工されてからです。牧之原揚水場にて台地上に揚水され、樹枝状に広がる80km余りの幹支線水路により茶園地帯に送水されました。これにより茶園での管理用水が確保され、牧之原台地は日本一の茶園面積と生産を誇りました。元々大井川周辺には取水施設がなく、治水対策に出費や労力に負担がかかっていました。それほど大井川の水資源はありがたいものだといえます。菊川も大井川水系です。かつては小川やため池の利用だけで潅水に悩まされていたと聞いています。最近では異常気象や災害が目立ち、牧之原台地にも突風被害が発生して脅かされていますが、こうした産業を築いてきたことは現在に至ってはありがたきことですし尊重しなければならないことだと思います。
当時の牧之原台地は生活に必要な水にも事欠く状態でした。台地下の水源からドラムかんやポリタンクに水を詰め何往復も重ねたり、住家や小屋の屋根などの雨水を水槽に溜めては管理用水に使っていました。また、干ばつ時のかん水・病虫害防除・施肥のための水も多く必要となりとても苦労がありました。この苦労が乗り越えられたのは昭和53(1978)年、生産性の向上と農業経営の安定を目指す「国営牧之原農業水利事業」が着工されてからです。牧之原揚水場にて台地上に揚水され、樹枝状に広がる80km余りの幹支線水路により茶園地帯に送水されました。これにより茶園での管理用水が確保され、牧之原台地は日本一の茶園面積と生産を誇りました。元々大井川周辺には取水施設がなく、治水対策に出費や労力に負担がかかっていました。それほど大井川の水資源はありがたいものだといえます。菊川も大井川水系です。かつては小川やため池の利用だけで潅水に悩まされていたと聞いています。最近では異常気象や災害が目立ち、牧之原台地にも突風被害が発生して脅かされていますが、こうした産業を築いてきたことは現在に至ってはありがたきことですし尊重しなければならないことだと思います。