宇治茶について その2 茶の湯と煎茶の発展
宇治茶が鎌倉時代に栽培されてからまたたく間に僧侶から宮廷にわたって喫茶の習慣が広がっていきました。南北朝時代にはいると産地の違いを飲み当てて点数を競ういわば
闘茶が行われるようになっていきました。同時に
茶の湯の文化が生まれ、安土桃山時代から戦国時代の16世紀においては、品質向上を高めるための栽培や、料理で客をもてなすために造られた茶室や座敷飾りや茶道具を鑑賞する茶の湯へと生まれ変わり、商人へも広がりを見せるなど宇治茶は天下一の茶として君臨されていきました。
被覆栽培がはじまったのはこの頃からだといわれています。
江戸時代になるとより制度化され、徳川三代将軍家光は朝廷献上茶と将軍家直用の高級茶を作らせ、宇治の茶園には高い年貢を課されるようになって庶民の間で日常的に茶が飲まれるようになっていきます。17世紀初めに
釜炒り茶の技術が九州から宇治に伝わると、宇治茶に栽培に従事されている永谷宗円(1681(延宝9)- 1778(安永7))が蒸した茶の新芽を焙炉の上で揉み乾燥させる技法いわば
青製煎茶製法(宇治製法)を生み出しました。茶葉も青く緑色に仕上がったことで「青製」と呼ばれ、現在の煎茶(蒸し製)の礎となり、今でも主流ともいえます。また、1834(天保5)には被覆栽培での青製煎茶製法が生み出され、これが玉露の発祥とされています。玉露の名づけの由来は諸説あるのですが、製茶業者山本山(お茶と海苔で有名が企業で創業は1690(元禄3)年)の6代目山本嘉兵衛徳翁が1835(天保6)年に宇治郷の茶製造場で自ら手をくだして蒸葉をかき混ぜ乾燥するにつれて小団形の茶に出来上がり、これを試飲させたところ、気品ある風味と鮮麗な色沢ある甘露のような茶が得られたことで自ら
玉露と命名させたといわれています。
関連記事