牧之原の開拓
我が菊川の茶が飲まれるようになったのは牧之原に開拓がなされたおかげです。
時代の背景は1867年大政奉還により徳川幕府が終焉した頃です。翌年鳥羽伏見の戦いが起こると最後の将軍徳川慶喜は江戸へ戻り、勝海舟、中条景昭らが精鋭隊を発足し警護されました。江戸城は無血開城され、その後水戸に移り、同年7月には駿府へ移住されます。その際、精鋭隊含む幕臣ら1万人余りも移り住んだといわれています。
1869(明治2)年、徳川当主となった家達が駿府に移住されると、静岡と改称されl靜岡藩に就任されます。精鋭隊は開墾方として牧之原へ移られ、中条景昭(1827- 1896)率いる約250人の元幕臣たちが開梱を始めました。金谷町、島田市、榛原町、菊川町及び相良町にそれぞれ分散し、月給を貰いながら開墾にあたり、1,425町歩もの開墾を始めたとされています。1871(明治4)年に廃藩置県によって徳川は静岡を離れ、1887(明治20)年以降幕臣らが世を去っていくにつれ入植者が減少していき、昭和には僅か数10戸に至ったといわれています。慣れない開墾の労働などで健康を害する者もあり、1877(明治10)年ごろから の茶価格の低迷のため、やがて不況に落ち込み、20年代には脱落者が続出していったとされています。しかし地元の農家や浜岡からやってきた富農丸尾文六(1832-1896)らにより、茶の栽植や開墾が発展し直輸出のために製茶直輸出会社が設立されていくようになり、今では日本一の茶業面積、生産量を誇っています。牧之原で茶を作ることの発案は勝海舟(1823-1899〉によるものだといわれています。
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