藤江勝太郎 その3
1895(明治28)年日清戦争が集結し下関条約において台湾が日本に割譲されます。藤江は湾総督府民政局殖産課技手として任務され、台湾茶業に関する調査もされてきました。台湾内だけでなく、中国やスリランカなどにも訪れ、加工工程や機械の用法・入手に必要な経費といった調査をされました。そして1903(明治36)年台湾の桃園に殖産局付属製茶試験場を開設して初代場長を務めるようになりました。攪拌(かくはん)機や釜炒り機を発明するなど烏龍茶の機械の開発に取り組んでいきました。これらの機械は現在でも同じ形で使われ続けているとのことです。また、紅茶の製造技術も行われ、品質の改良がなされてきました。そして台湾で初めてロシアへ紅磚茶(紅茶の粉末を固めたブロック型の茶)を製造し輸出されました。台湾紅茶として世界に名前が売られていきました。1910(明治43)年には日本台湾茶株式会社を設立、現地責任者として専務取締役技師長に就任されました。20世紀の台湾茶事情については
こちらもご参照下さい。 つづく
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