台湾茶について その2
アロー戦争(第2次アヘン戦争)後の1864年に英国人の商人ジョン・ドットが貿易会社を設立し、中国福建省を拠点に大陸から陶磁器やお茶などを買い付けました。以降、福建省から製茶技術が伝わり、中国式の製茶方法へと移り変わりました。福建省の武夷山や安渓から持をち込んだ苗木を台湾に持ち帰り茶の栽培が進んでいきました。ジョン・ドットは茶葉の収穫後それを買い取った後それを大陸に運んで加工してからアメリカやオーストラリアに輸出しました。1869年には「Formosa Tea」(フォルモサ・ティ)という名でニューヨークに輸出されました。フォルモサとはポルトガル人がつけた台湾の美称であり麗しの島の茶という意味があります。1872年には、英国へも輸出され高品質の茶として人気を博していきました。英国では「オリエンタル・ビューティ(Oriental beauty)」とも名付けられ今では東方美人茶として製造販売しています。一方で台湾の南投県の鹿谷郷に住む林鳳池(リンフォンチイ)という人物が1865年に福建省から苗木を持ち込み栽培して作られた茶が
凍頂烏龍(とうちょううーろん)です。1870年代になると世界金融恐慌が起き輸出も不況に陥っていきました。そこでマカオに輸出し、東南アジアへ販路を広げていきました。1873年に台北にある文山地区で烏龍茶が作られるようになりました。当時、売れ残った烏龍茶を福建省へと送ることで花による着香を行い、そのお茶はフレーバー茶として東南アジアにて販売されました。その後改良が進み、微発酵技術が開発されてから自然な甘い花の香りを引き出すことに成功してできたうえで文山包種茶が生み出されました。包種茶は紙に包まれ長方形の箱状のパッケージで販売されていたことがモチーフとなっています。包種茶は中国で生まれたものですが、1881年には包種茶の製造工場を台湾に設立されました。東方美人、凍頂烏龍、文山包種茶は現在台湾の代表的な茶です。
1895年日清戦争の勝利により台湾は日本に割譲されます。台湾は日本の統治下に置かれることになりました。日本は製茶機械を導入し茶産業を振興させていきました。それにより、茶葉の製造量や輸出量が飛躍的に上昇していきました。 その3へつづく
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